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東京地方裁判所 昭和62年(刑わ)552号 判決

主文

被告人を禁錮一年二月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、東京都豊島区巣鴨<以下省略>で〇〇産婦人科医院を開設し、医師として医療業務に従事しているものであるが、昭和六一年三月二七日午前一〇時五五分ころから同日午後二時三〇分ころまでの間、同医院において、妊娠七か月の甲野花子(当時一六歳)に対し人工妊娠中絶手術を実施するにあたり、妊婦の妊娠月数によつて適切な手術方法が異なり、同女のように妊娠五か月以上七か月以下(以下「妊娠中期」という。)の場合には、子宮口から胎児を胎盤鉗子等を用いて除去する中絶術は子宮壁等の損傷による多量出血の危険が大きいから採るべきでなく、ラミナリアによる子宮口の十分な拡大及びプロスタグランデン等による陣痛誘発によつて胎児を娩出させる中絶術を選択する必要があり、そのためには十分な内診をするなどして妊娠月数を正確に診断し、右危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があり、また、当初、同女の妊娠月数を四か月と誤診したため、子宮口から胎児を胎盤鉗子等を用いて除去する中絶術を採り、右手術途中で妊娠中期であることに気づいた場合に、なお前記のような危険を冒して右中絶術を続行するのであれば、出血多量等の異常が生じたときには直ちに手術を中止し、輸血等の適切な救急措置を講じて同女の生命身体に対する危険を極力食い止める必要があり、そのためには出血量、脈拍、血圧等に十分注意するなどして、同女の全身の状態を監視すべき業務上の注意義務があるのに、これらをいずれも怠り、同女の子宮底の高さを正確に測定しなかつたのみならず、被告人のなした不正確な測定によつても妊娠六か月に相当する子宮底の高さが認められたにもかかわらず、被告人が同女に対して昭和六〇年一二月八日に実施した人工妊娠中絶手術が失敗に終つていたのにそれが成功したものと過信していたため、同女の最終月経に関する不正確な説明などを基に、さらに十分な診察をなさずに、同女が右人工妊娠中絶手術後にあらためて妊娠したものと軽信し、同女を妊娠四か月と誤診した過失により、子宮口を一指程度拡大したのみで子宮口から胎児を胎盤鉗子等を用いて除去する中絶術を採つても危険はないものと考え、三本のラミナリアとヘガール頚管拡張器により子宮口を一指程度拡大したのみで子宮口から胎児を胎盤鉗子等を用いて強引に除去しようとしたため、同女に、腹腔内に達する小指頭大の穿孔を伴つた子宮壁損傷並びに胎盤の子宮壁からの一部剥離による子宮の胎盤剥離面の挫滅及び胎盤損傷の各傷害を負わせ、さらに、右のとおり子宮口から胎児を胎盤鉗子等を用いて除去しようとした際、子宮から出てきた右胎児の左上肢を見て、妊娠中期であることに気づきながら、なお右中絶術を続行したのに、ひたすら右胎児を除去することにのみ気をとられ、同女の出血量、脈拍、血圧等に十分注意するなどして、全身の状態を監視しなかつたため、前記各傷害により同女の出血量が多くなり、出血多量等の異常が生じたものの、これに気づかないまま、漫然右中絶術を続行した過失をも重ね、よつて、昭和六一年三月二七日午後三時五七分ころ、同医院において、同女を右各傷害による失血により死亡させたものである。

(証拠の標目)<省略>

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法二一一条前段、罰金等臨度措置法三条一項一号に該当するので、所定刑中禁錮刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を禁錮一年二月に処し、情状により刑法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予することとする。

(量刑の理由)

本件は、産婦人科の医師である被告人が、一六歳の少女に対して、人工妊娠中絶手術を実施するにあたり、不注意にも妊娠月数の診断を誤つたため、危険な手術方法を選択してしまい、しかも、手術にあたり十分な注意をしなかつた結果、同女を失血死させたという事案であるが、そもそも、人工妊娠中絶手術には、母体の生命及び身体に対する高度の危険が内在しているものであるから、医師としては、その手術方法の選択及び実施にあたつては細心の注意を払うべきことは当然であるところ、本件を見るに、母体内の胎児の成長に応じた適切かつ安全な手術方法を選択して実施するためには、妊娠月数を正確に診断することが大前提であるが、被告人は、自己が本件手術の約三か月半前に実施した人工妊娠中絶手術が失敗に終つていたのに正確な確認をしないまま、それが成功したものと過信していたことなどから、妊娠月数を正確に診断するという最も基本的かつ重大な注意義務を怠つたものであるうえ、本件手術の途中で、妊娠月数の診断及び手術方法の選択の誤りに気づいたため、右手術を中止するなど本件被害者の生命及び身体に対する危険を回避する措置を採るべき機会があつたにもかかわらず、かえつて、慌ててしまつたため、判断を誤り、あえて本件被害者の生命及び身体に対する高度の危険を伴う右手術を継続したばかりか、胎児を除去することのみに気を取られ、手術時に出血多量等の異常が生じたときに、それに適切に対応するための大前提で、これまた基本的かつ重大な注意義務であるところの妊婦の出血量等を監視すべき義務をも怠つたというもので、その過失の態様はまことに悪質であると言わざるをえず、その結果、一六歳という前途豊かな若き生命を奪い、その両親らにはかりしれない精神的打撃を与えたものであることを考えると、その刑責は極めて重大である。

しかしながら、被告人は、被害者の遺族との間で、金五七六〇万円を支払う旨約して示談し、その金額を既に支払つていること、自ら招いた結果とは言え、本件により医師として長年培つた信用を失墜し、産婦人科の医院を継続して経営することが困難になり、今後は、産婦人科の医師として医療に携わらず、他の診療科目の医師を志すことになるなど、すでに相当程度の社会的制裁を受けていること、本件犯行後、自ら優生保護法指定医師の指定を辞退するなど、深く反省の情を示していること、被告人には前科前歴が全くないうえ、二五年間余にわたつて産婦人科医師として、大過なくその業務に従事してきたこと、被告人は一家の大黒柱で、扶養しなければならない妻子がいることなど、被告人に有利な情状も多々認められるので、これらの諸事情を全て勘案し、被告人を主文掲記の刑に処したうえ、その刑の執行を猶予するのが相当であると思料した。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 島田仁郎 裁判官 秋葉康弘 裁判官 吉村典晃)

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